人間の能力には、デコボコがあります。
算数は得意だけれど、国語は苦手。
国語は得意だけれど、算数は苦手。
どちらも得意だけれど、スポーツは苦手。
全部得意だと、苦手な人の気持ちがわからない……
そして、人それぞれ、得意不得意がズレているために、アドバイスが有効に伝わらない、という現象が起きます。
算数の得意な人が、国語の先生に、国語の勉強方法を教わるとき、このことを心に留めておく必要があります。
国語の先生は、
と、アドバイスします。
そこで、算数の得意な人が、言われた通りに解答すると、
と言われます。
では、どのような解答が論理的なのか?
その先生の模範解答や解説を聴くと(読むと)、
と思うようなことが書いてある。
う~ん。わけがわからん。
この先生、頭、大丈夫か?
それとも、こっちの頭がおかしくなったのか……
こうして、国語への苦手意識が増していきます。
なぜ、このようなちぐはぐが起きるのでしょうか?
それは、国語の先生が言う「論理」と、算数の得意な人が考える「論理」が、異なるからです。
つまり、「国語の論理」と「算数の論理」は、違うのです。
算数の論理は、純粋な論理です。社会常識など、関係ありません。
だから、算数には、天才少年少女が存在するのですね。
社会常識など知らなくても、自分の頭の中だけで、どんどん論理展開できます。
「天才」とまではいかなくても、難関校の算数の問題に対処できる小学生の論理的思考力は、平均的な大人のそれを、上回っています。
彼らに向かって、「国語は論理が大切です」とアドバイスすると、彼らの論理的思考力はフル回転し、国語で求められる論理的思考力を大きく超えてしまいます。
論理的に鋭どすぎるのです。
これを、国語の先生は、「屁理屈(へりくつ)」と呼びます。
では、国語の先生は、何を根拠に、国語の先生を務めているのでしょうか?
それは、「社会常識」です。
社会常識がどこにあるのかを言い当てる能力が、根拠になっています。
ということを、わきまえていて、それを根拠に、問題、解答を作成しています。
論理、論理と言っていても、その論理を一皮めくれば、そこには社会常識(多数派の価値観)が現れます。
国語の論理は、純粋論理ではなく、社会常識に基づいた論理なのです。
ですから、本文に直接書いていないことでも、社会常識上、当然導かれる結論であれば、その先生にとっては、「本文に書いてあること」なのです。
社会常識に乏しい小学生にとっては、「本文に書いてないこと」なのですが……
そのようなわけですから、算数が得意(で国語が苦手)な小学生に対しては、
と、アドバイスするべきです。
さらに言うと、物語文では、
というアドバイスも必要かもしれません。
「二元論」でもお話しているように、理性と感情は、対立するものです。
つまり、「登場人物の気持ち」は、「論理」では、説明できません。
人の気持ちは、矛盾に富み、複雑で、デリケートなものです。
しかも、ある程度、自分が経験しないと、理解できない部分もあります。
小説を読んで理解するにも、限界があります。
そのように考えると、「学校」って大切だなと、つくづく思います。
特に、休み時間、給食、放課後など、教科の授業以外の時間も、とても大切です。
友達とふれ合う中で、様々な経験をし、様々な感情を味わってこそ、物語文の読解力が身につきます。
机の上で、問題集を解くだけでは、足りないのです。
国語の勉強に必要なものは、文法や、読解の技術だけではありません。
社会常識と、人生経験、コミュニケーション能力、人間観察力も、大切です。