読解力をつける。
問題文を読む。
問いに、答える。
読解力があれば、点数は、後から自然についてくる。
もし点数が悪ければ、それは読解力がないからだ。もっと勉強して、読解力を身につけよう…
中学受験の勉強を始めた小学生のころ、私は、このように考えていました。
でも、実はこれ、少し違うのです。
もちろん、読解力がなければ、話になりません。
読解力をつける勉強は、必要です。
でも、読解力さえあれば、点数は後から自然についてくるか、というと、そうとは限りません。
なぜなら、文章の読み方、解釈の仕方は、実に様々で、極論すれば、読者の数だけあるからです。
そして、中学受験・国語というものは、「出題者」の解釈、「出題者」が正解と考えているところを、言い当てる競争だからです。
意外かもしれませんが、本文の「筆者」がどのようなつもりで、文章を書いたのかは、決め手にはなりません。
ここが、とても難しいところです。
筆者は、これはもう、自分の思うところを、自由に書けます。
読者に伝えたいことが明確で、そのために書くことが多いでしょう。
でも、もしかすると、「これを伝えたい」ということを、1つにしぼることなく、「解釈は、読者にまかせる」というスタイルの文章も、あるかもしれません。
筆者は、大きな骨太の「枠組み」だけを示して、読者に、自由にイメージをふくらませてもらう、という技法もあります。
しかも、この文章は、入学試験の題材とされることを、必ずしも予定したものではありません。
ですから、国語の教科書や、受験参考書に書いてある、「文章読解の基本」通りに文章が運ばれているとは、限りません。
出題者は、入試で使えそうな文章をさがします。
ここで、「入試に使えそう」とは、「文章読解の基本」的なことに、ある程度沿ったもの、ということです。
でも、もともと作家が書く小説などは、受験用に書かれた文章ではありません。
読み方は、自由です。様々です。
そこで、出題者なりに、その文章を解釈し、入試問題にふさわしい切り口を見つけ、正解を設定します。
でも、入試で国語の出題を担当するほどの先生であれば、文章の読み方、解釈の仕方が、多様であることは、百も承知なさっています。
できる限り、常識的で、多くの人に受け入れられる解釈をするよう心がけますが、それでも、自分の好み、価値観(主観)が入り込んでしまうことを、理解なさっています。
そこで、試験を公平、適切にするために、「私はこれを正解に設定していますよ。」というヒントを、「設問」の中に、うめ込んでいます。
入試において、受験生は「まな板の鯉(こい)」です。
どのように調理されるかは、出題者(=採点者)次第です。
ですから、〇をもらいたければ、「出題者」が正しいと考えていることを、言い当てなければいけません。
でも、多くの受験生が、ここでミスを犯します。
設問に十分な注意をはらうことなく、本文にばかり気をとられ、「筆者」はこう考えているのだろう、と「自分」が解釈したことに基づいて、答案を書きます。あるいは、選択肢を選びます。
その読み方、解釈が、たまたま出題者と同じであれば、〇がもらえます。
でも、出題者と異なれば、×です。
たとえ、受験生の読み方が、「筆者」の期待していた読み方であっても、「出題者」とズレていれば、×なのです。
もし、「筆者」が採点すれば、
「そうか。あなたのような解釈もアリですね。参考になりました。」
と言ってくれるかもしれない、すばらしい答案であっても、「出題者」の設定した「採点基準」にそぐわなければ、×です。
ここが、つらいところです。
入試において、出題者は神様です。
絶対に、逆らってはいけません。
心の中で、けんかしてもいけません。
出題者だって、いじわるや、いやがらせで、出題しているわけではありません。
なるべく公平に、適切に、合否の判定を行おうと、真摯な努力と工夫をなさっています。
その工夫が、「設問」の、とりわけ「条件設定」に、表れています。
このことをよく理解して、「設問読解力」を身につけるべきです。
「本文読解力」を身につけるのが、本来の国語の勉強ですが、受験では、これとは別に、「設問読解力」を身につける必要があります。
出題者を面接官だと思って、「何が問われているのか、その場の空気を読む力を身につけましょう」ということです。
これが、国語の「受験テクニック」です。